瓦に願いをこめて

在りし日の洞仙寺の本堂とその内部hondo

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●洞仙寺創建まで

 宮城県石巻市にあって、海に突き出している部分を「牡鹿半島」といいます。この牡鹿半島は古くから宗教活動の拠点が置かれ、牡鹿半島の最高峰”大六天山”はその中心でありました。
 ここに、885年(仁和元年)に「大六天山三國寺(天台?)」が、「全虎和尚」により創建され、宗教活動拠点が置かれました。後に山火事により消失廃寺。
 その三國寺を前身とする創建年代不明ですが、大六天山七合目に「天台宗梵ヶ寺」七堂伽藍を備えた立派なお寺であったいいます。その後廃寺(年代不明)。
 廃寺であった梵ヶ寺を、曹洞宗が改宗する形で再建されるのが、1458年(長禄二年)のことです。
 古川萬年寺四世笑岳良誾の弟子”在智良孝”によって、「三國山洞仙寺」は開山されます。(554年前・現在三十四世閑山芳栄和尚代)

●洞仙寺三世喜安良悦と伊達政宗

 洞仙寺三世 喜安良悦は、洞仙寺歴住の中でも特筆される住職です。

 良悦が住職であった時と、伊達政宗が「図南の鵬翼」と語り継がれるれる”遣欧使節派遣”(支倉六衛門常長)を実現させる時が一緒でありました。
 この時期を前後して、政宗は牡鹿半島で狩猟を行うことがしばしばあり、その折の良悦和尚と政宗の交流エピソードが残されております。
 それは、明治・大正の佐藤広胖著『修身図鑑』に「良悦和尚杉苗培養」として詳解されていました。
 1610年仙台城大広間の完成披露に良悦和尚は招待され、杉苗の培養、樹芸による国家百年の富強策を講じたといいます。
 良悦和尚は、良い杉の苗を求めて遠く熊野にまで足を延ばしたといわれますし、

 

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仙台を「杜の都」と呼ぶのは、一つには良悦和尚の培養なる杉木立が作る景観によるとも聞き及んでおります。
 日光街道の杉並木も良悦和尚培養の杉苗を政宗が植樹させたものと言います。
 寛永時代、洞仙寺は植林事業の功績により、二代忠宗(義山公)より『仙人図』(狩野玄徳筆)を拝領。残念ながら今回の大震災で流失しました。
 先ごろまで現存の仙人図は一幅でしたが、本来は「ガマ仙人」「鉄拐(てっかい)仙人」の対幅であると思われることから、いつの時代にか「ガマ仙人図」は、所在不明となっていたと思われます。

その折に杉苗2800本を仙台に運び、本丸・花壇・領内の諸寺に植樹、その後の7年間に合計2万本に及んだといいます。

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●江戸の終焉・中井初次郎

 讃岐国塩飽諸島・広島(香川県丸亀市)出身の「中井初次郎」は、慶応4年冬10月6日35歳の若さで、洞仙寺に葬られました。
 慶応4年4月、江戸城無血開城に異を唱える榎本武揚(釜次郎)率いる「開陽丸」ほかの軍艦と二千名余の乗組員は、新天地(北海道)に向け脱走しました。
 航海術に秀でた初次郎は、多年の功績により公より苗字帯刀を許されるなど航海士として類まれな技量の持つ主でした。
 榎本率いる「開陽丸」の航海士として航行中に、鹿島灘にて台風と遭遇し、一晩中の奮闘により松島湾を経て折浜港に停泊。
 初次郎艦上視察中に眩暈(めまい)を起こし、その場に倒れ再び起き上がる事はなかったといいます。
 古老の記憶では「葬儀の盛大なることは、今まで見たことがない」との表現どおり、土方歳三などの参列もありました。
 洞仙寺過去帳には「法名『賢孝院儀融良傳居士』讃州広島産開陽艦徳川御人数の内、折浜にて病死當寺にて弔う」とあります。

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