洞仙寺の歴史(喜安良悦と伊達政宗)

洞  仙  寺

伊  達  政  宗

そ  の  他

・(885年 仁和元年)
大六天山三國寺(天台宗)創建 『全虎和尚』 
→山火事に見舞われ消失廃寺
・(創建・廃寺年不明)
大六天山七合目に天台宗梵ヶ寺創建、→その後に廃寺 (創建・廃寺年不明)
・(1458年 長禄二年)
 萬年寺(古川)四世笑岳良誾(ぎん)の弟子 在智良孝→廃寺の天台宗梵ヶ寺を曹洞宗洞仙寺として再建(現550年) 
※洞仙寺口伝には、再建を1529年享禄二年としているが、長禄二年との間に70年の開きがあり、あまりにも不自然でありここでは長禄二年を取る。
・(1471年 文明三年11月5日) 
在智良孝示寂(80歳)
・(1607年 慶長十二年2月6日) 
洞仙寺二世 大心良智示寂(85歳晋山不明)
・洞仙寺三世 喜安良悦 
洞仙寺にとって最も活躍をなした住職であるといって過言ではない。  
伊達政宗との逸話は、明冶・大正の佐藤広胖著『修身図鑑』「良悦和尚杉苗培養」として詳解されていた。(資料参照)

 

・(1567年 永禄十年) 
梵天九(政宗)誕生 
第16世 伊達輝宗の嫡男  
(1584年 大正十二年)に18歳で家督を相続
・(1601年 慶長六年) 
仙台城居城
・(1604年 慶長九年) 
第一回遠嶋遊猟

 

『奥羽観跡聞老誌』 
照源寺では「全甫國師」

 

 

 

 

 

・在智良孝 →同年女川浦宿照源寺創建
・在智良孝の兄弟弟子石翁良玉が伊原山法山寺を創建するのが1457年長禄元年からも、洞仙寺享禄二年は考え難いと三宅宗議氏(照源寺の創建とその時代)
・洞仙寺口伝示寂年 1559年 
永禄二年11月5日示寂

 

・1610年 慶長15年 
仙台城大広間の完成に招待され、良悦和尚杉苗の培養・樹芸による国家百年の富強策を講ず。その折杉苗2800本仙台に運び、本丸(城 内)・花壇・領内の諸寺に植樹、7年間に合計 2万本に及んだ。
この功により寺領として田畑二貫文を賜る。 また、良悦和尚は、良い種を求めて遠く熊野まで足を伸ばしたとも言われている。
・「仙台杜の都」は、この杉の作る木立の名称であると聞く。
・日光街道の杉並木も良悦和尚培養の杉苗を政宗が植樹させたものと言う。
・政宗は、植林を奨励、その後山林奉行・代官によって厳格管理、私有林の伐採でも届出が必要であった。
・寛永時代、洞仙寺は植林事業の功績より、忠宗(義山公)より『仙人図』拝領。(東日本大震災津波により流失) 狩野玄徳筆
・月浦には、その当時梅渓寺の末寺となる『観音寺』があり、支倉常長はこの寺より出発し、この寺に帰国したものと想像される。
・月浦には、支倉常長の遺品が保管されていた形跡があり、月浦の阿部徳助という家の梁に縦5尺横7寸深8寸くらい箱が結び付けられていてが江戸の後期、月浦の大火により消失。
 「開ければ目がつぶれる」と言い伝えた。
 他には、倉庫に保管、年に一度は虫干しをしていたとも言う。

 その後、政宗・忠宗は度々桃浦付近に 滞在をして狩猟。 桃浦付近は伊達藩の狩猟地となる。 この狩猟は、ある意味での戦闘訓練ともなっていた。

 

 

 

 

・1613年 慶長18年9月15日  『慶長遣欧使節』支倉六右衛門常長 政宗の「図南の鵬翼」にはせた夢の実現への第一歩をローマに向けて、月浦より解纜(らん)
・伊達の黒船「サン・ファン・バウティ スタ号」(陸奥丸とも)

・日本でのキリスト教弾圧に伴い、外交交渉は成功しなかった。元和6年8月 24日(1620年9月20日)に支倉常長はマニラ経由で帰国(月浦に帰る)イエズス会の抵抗キリスト教の情報合戦に敗れたようなもの。ルイス・ソテロ(フランシスコ会宣教師)

・徳川家康 1612年10月 使節船サン・セバスチャン号が、 浦賀港外の浅瀬で座礁沈没。  この船に、政宗の命を受けた支倉常長が乗船していた。

 

『貞山公治家記録』「南蛮国に渡る黒船牡鹿郡月浦より発す」

 

・陸奥丸が、サン・ファンと銘々 されたのは、太平洋を2航海し た後、1618年マニラにてイ スパニヤに強制的に買収され、軍艦になった時に附けられた名 (高橋盛氏) 
その後のサン・ファンを知るものはない。

・月浦「観音寺」は後に廃寺となる。

想像するに、支倉常長帰国後時間を経ず、表向きは廃寺として、管理は洞仙寺に移管したのでないか。支倉常長持ち帰り品を隠した。