中井初次郎のこと

 慶応4年1月6日鳥羽伏見の戦いで幕府軍は薩長軍に敗れ、15代将軍徳川慶喜はひそかに大阪城より江戸に逃げ帰りました。
 その後を追って急ぎ江戸に戻った榎本武揚(釜次郎)は、薩長軍に対し、徹底抗戦を唱えたのに対し、勝海舟は江戸城無血開城を主張しました。二人の意見は激しく対立し、同年4月21日江戸城が開け渡されるや、榎本は軍艦を官軍に引き渡すことを拒絶し、『開陽丸』外三隻の軍艦と四隻の輸送船に二千余名の乗組員を率いて新たなる天地を求めて北海道に脱走しました。
 このとき『開陽丸』の航海士として乗り組んでいたのが『中井初次郎』その人であります。
 讃岐国塩飽諸島(香川県丸亀市)出身者は、豊臣秀吉の時代より皆豊富な航海術を身に付けた者ばかりで有名であり、中井初次郎もその流れを汲む者の一人でありまた。まじめで、善良なる行動をとり、多年の乗船の間、他者とは比較にならない働きをなし、公より武士と同じ苗字帯刀を許されました。
 8月19日館山沖を出航。初次郎は、榎本率いる軍艦『開陽丸』の航海士として乗り組み北海道に向かって航行中、鹿島灘で台風と遭遇。帆柱は折れ、帆は裂け千切れる中、乗組員を励まし一晩中奮闘努力。 甲斐あって8月24日、松島湾(寒風沢)に至り、8月26日折浜港に停泊。
初次郎艦上視察中に眩暈を起こし、その場に倒れ再び起き上がることがなかったのです。〔9月8日年号が「慶応」から「明治」へ〕
 時に、初次郎35歳。慶応4年(明治元年)冬10月6日の事であります。
 遺体は艦上より桃浦洞仙寺に移されて、古老の記憶によると「葬儀の盛大なる事は、いまだ当地方では見たことがない」ものであったと言います。
 洞仙寺過去帳には、「法名『賢孝院儀融良傅居士』讃州広島産開陽艦徳川御人数の内、折浜にて病死当寺にて弔う」とあります。
 10月16日には、榎本率いる軍艦『開陽丸』外は、北海道に向けて出航。初次郎が葬られたのは、ここより1.5㌔ほどの山の中、旧洞仙寺跡地の北側となります。昭和42年以降に墓石のみ、折浜を臨むこの地に移転しました。
時は移り、平成8年7月19日。塩飽諸島の広島にある『地福寺』久保田住職さん一行による中井初次郎への墓参が行われました。
 地元では『中井初次郎の顕彰碑』が建立されております。(文責洞仙寺)